鎌田信号機 Web Magazine
わが胸の夕日は沈まず

  第十五話 3/3
第三章 決死編

待望の祖国の港事

船上にあること約10日間、ついに復員船は浦賀港に無事着岸した。なつかしい祖国の土。だが自分は上陸するなり、

「健康診断の結果、栄養失調であるから入院せよ」
との指示をうけた。あわてて復員援護局員に、

「入院は大阪でもできます。妻子が待っている大阪へ一刻も早く早く帰りたい」
と懇願。やっとのことで係官に了解してもらうことができ、帰りの旅費として金二百円をいただいたのであった。そして着のみ着のまま、米軍支給の毛布を大切にして、東海道線の復員列車に便乗した。

この列車は各駅停車で、約24時間、一昼夜かかって大阪駅に到着した。天王寺行に乗り替え、そして4つ目の駅が目的の森の宮だった。

青天井のホームから見渡すと、案の定、大阪砲兵工廠の大工場は見る影もなく全壊している。周辺の繁華街も焼野が原であった。

妻子が住んでいた白山町1丁目まで約0.7キロメートル歩かねばならない。だが、当時、自分の体力は20〜30メートルも歩けば休憩しなければならないほど消耗していた。まったく乞食同様の姿で、道行く人が誰ひとり自分を復員兵として見てくれないのが残念だった。ただの一人も自分に「兵隊さん」とは言ってくれないのである。

わずか数百メートルを小一時間もかけて歩き、やっと叔母の小林の家のあった所に着いた。その中に住んでいるのでなく、近くに3メートル以上もある壕があり、そこに叔父と叔母はいた。叔父が掘ったこの壕のおかげで命拾いできたそうである。自分の妻子は大阪大空襲の前に兵庫県の加古川へ疎開したとのこと。しばらく休憩して、さっそく家内の住む加古川へと出発。心だけが勇み足のていであった。

再び森の宮駅から大阪駅まで出て、大阪駅から加古川へ。

加古川駅で降り、約100メートルの加古川橋を渡り終わった所で、腰のかがんだおばあさんが現れ、

「兵隊さん、ご苦労さんでしたなー」

と言ってくれた。

内地に帰って初めて、自分は他人から復員兵としてねぎらわれたのである。その初めての言葉は今でも忘れることはできません。おばあさんは、手ぬぐいで頬かむりしていたのですが、その手ぬぐいを取りながら、私の姿を見て、

「兵隊さんご苦労さんでしたなー」

その言葉で、自分の戦地での苦労も吹っ飛んでしまったのであった。

疎開していた妻は子供をつれて、近くの「明石家」というだんご屋で、今でいうパートとして働いていたのでした。私がその住居である長屋へ着くなり、近所の人がさっそく妻子に「父帰る」の連絡をしてくれた。

3年余りぶりのお互いに死戦を越えた親子の対面は、何と言ってよいか只、絶句するばかりであった。妻は、

「よく生きて帰れたなー」。

と私の両手を固く握りしめてくれた。その瞬間、何の言葉も出ずに涙が出て止まらなかったのであった。

私はそれから急に体調が悪くなり、布団に横たわった。マラリアの発病で、私は姫路城の近くにある陸軍病院に救急車で運ばれた。妻子は病院まで同乗していたのでした。

この病院で、マラリアと栄養失調を回復するには約4か月かかると知らされた。妻は

「このさいゆっくり養生して、元気になってから今後の事は考えたらいいでしょう」

と言ってくれた。

妻は再度加古川橋西詰めにある明石屋のだんご店にて根かぎり働き、私の元気な退院を待ってくれた。よくぞ銃後の守りを果たしてくれたと、ただただ感激と感謝の念を新たにするものであります。

わが胸の夕日は沈まず 終わり
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わが胸の夕日は沈まず 終わり
この物語は鎌田信号機株式会社 創業者 故 鎌田大吉が平成7年に自費出版した戦争体験記「わが胸の夕日は沈まず」に基づいて掲載させていただきました。執筆については、当時の記憶や戦場での個人的体験を基に行いましたが、誤報の可能性や失礼な表現がある場合がございます。戦争中という特殊な状況下であった事につきご寛容いただきますようお願い申し上げます
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