意識も朦朧として、ほとんど人事不省に陥りかけたとき、
「鎌田よ、ここで犬死にするのか。野垂れ死にするのか。大阪で妻や子が待っているではないか。元気出せ!さあ立て!」
班長殿が自分の両手を引っ張ってくれたのである。おかげでようやく立ち上がって我に返ることができた。なるほど自分には、待っていてくれている妻子がある。そのことに気付いたのであった。
「ようし、ここで死んでたまるか。動けなくなれば誰にも助けてはもらえない。四つん這いになっても進むのだ。」
自分自身との、最後の気力の戦いである。ファームスクールまでたどりつけば、そこに何十台かの米軍のトラックが迎えに来てくれているとのことだった。
「鎌田頑張れ!頑張れ!何時頃までに下山できないと、助かる命も助からないのだぞ」
班長殿の叱咤激励が続く。その下山の行程何キロであったか忘れたが、無我夢中であった。そしてようやくにして麓にたどりつき、米軍トラックに便乗することができた。
今から回顧して思うことは、日本軍は比島で戦勝の時、バターン半島で米兵たちに「死の行軍」をさせたが、これらはまったく無謀で残虐な行為だったということだ。米軍のわれわれ敗者に対する扱いは意外に寛大であった。これはソ連の日本兵に対する非人間的な扱いとも比較されることである。