鎌田信号機 Web Magazine
わが胸の夕日は沈まず

  第六話 1/2
第三章 決死編

サイゴンよさようなら

3月22日、いよいよわが輸送船団「ベルギー丸」に対して出航命令が下った。

サイゴン市の思い出は数多く、再度の日の丸の旗波で安南人の温かい見送りを受ける光景は、また格別の感を胸にとどめたのであった。

自分たちは軍帽を振りながら

「ありがとう」

「さようなら」

と連呼で答えた。お互いに心が通じ合ったというその実感は、異国の地で燃えた友情であり、人間の尊い「ドラマ」でもあった。

ベルギー丸はメコン河を下流へと航跡を残しつつ、不気味な夜の静寂を破るが如く進航した。まもなく印度洋上の荒波が轟々とわが船体にぶつかってくるが、前回の「魔のバシー海峡」よりうねりは少なかった。

またもや米潜水艦の攻撃情報が昼夜を問わずに放送されるが、船内ではわが隊長と副官がさかんに雑談にふけっていた。自分はその自若たる顔色を見ながら絶えず一喜一憂していた。

一週間後、船団がマニラ港に近付き始めたのか、隊員たちがわれさきに甲板に昇り始めた。誰からとなく

「マニラ港が見えた見えた」

と絶叫する。そこへ日直士官がやってきて双眼鏡をのぞきこみ、得意気に、

「あと半時間もすればマニラ港だ」

と話した。自分はその半時間がとても長い長いと感じていた。船団はかろうじて、3月29日、マニラ港に無事錨を降ろした。港湾には真赤に映える夕焼けの光景が海面一杯に満ちる。何という美しさであろうか。

サイゴンを出航して7日間の航海の長い長い不安感と苦痛は筆舌に尽くし難いものであったが、マニラ港に上陸するや一瞬にしてふっとんでしまった。

各部隊は次々と上陸し、われわれは旅団通信隊に編入され、レイテ島のタクロバン地区に進駐すべく準備待機中の本隊とともに公園植込樹間に天幕を張り野営した。その間わが部隊はレイテ島作戦のため準備におおわらわであったが、突然、作戦命令の変更が伝えられた。

これは「生か死か」の分かれ目であった。自分たちは幸運にも「レイテ島」の土を踏むことはなかった。

4月5日付の命令変更でビコール地区警備中の京都第16師団の精鋭甲装備の垣部隊長と交替となった。

翌朝マニラ港を見てまず驚いたことは、かつて威容を誇った日本帝国海軍艦隊の姿を一隻も見ることができないことであった。この南方の重要基地の情況がうそのようにあまりにも寂しく、一抹の不安を感ぜざるを得なかった。

また、港湾を見渡すとマニラ攻略作戦がいかに壮絶であったかを物語る痕跡が多く、海岸通りに点々としてそびえ立つヤシの大木が目立っていた。

この物語は鎌田信号機株式会社 創業者 故 鎌田大吉が平成7年に自費出版した戦争体験記「わが胸の夕日は沈まず」に基づいて掲載させていただきました。執筆については、当時の記憶や戦場での個人的体験を基に行いましたが、誤報の可能性や失礼な表現がある場合がございます。戦争中という特殊な状況下であった事につきご寛容いただきますようお願い申し上げます
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