鎌田信号機 Web Magazine
わが胸の夕日は沈まず

  第六話 2/2
第三章 決死編

世界一を誇る「マニラ」の夕日を眺めて

初めて見るマニラの夕日が青い水平線のかなたに沈むとき、真赤なデッカイ太陽が海面広く、強く輝きわたる。ああ、なんという壮観であろうか。大自然の美を誇るマニラ湾ならでは味わうことができない一瞬であり、世界一の美港を象徴する夕景として、私の脳裏に今でも深く残っている。

わが部隊は昭和19年7月10日、旅団通信隊が師団通信隊に改編されて、マニラ市南方約100キロのロスパニオス市の農業大学校内に移駐した。ロスパニオス市はラグナ湖を背景に温泉地として名高く、かつての米軍の駐留時代には保養所として脚光を浴びていたようであった。

われわれは校内に第105師団司令部とともに駐屯した。われわれはさらに軍令陸甲第63号による下命で7月10日付、第105師団通信隊に編入された。編成発表後、隊長より初訓示を受けた。記憶しているところではその訓示の内容はまず隊長の軍歴、ならびに戦歴であった。

「フィリピン作戦のわが通信隊に課せられた重要な任務として、隊員の士気高揚団結強化をはかり皇軍の必勝の信念をもって尽忠報国の誠を揚げよ」

との力強い訓示に、自分は大いなる感動をうけたのであった。

農業大学校内のすべての設備等は万全であり、特に校庭は広々として軍事教練に最適であった。だが一歩正門を出れば約20メートル幅のでこぼこ地道であった。学校の周囲の畑では農家の人々が野菜の栽培等をしていた。またその道のかたわらにはニッパ小屋の店舗がちらほら立ち並んでいた。

店には、バナナ、煙草、ドリアン、パイナップル、ヤシの実、衣類があったが、自分たちは初年兵だから、当時外出は厳禁されていた。ある日、班長殿に同行した折に店並を見て通りバナナが食べたかったがままならぬ。

ところが、夜、隊内が消灯になったころ、宿舎に付近の若い男女が物品を売りに来た。それは枝豆のお菓子と黒砂糖のかたまりとバナナであった。さっそく「誉」の煙草を渡し、枝豆とバナナと交換した。自分は酒も煙草も体質的に飲めないが甘いものには目がなく、飛びついたのであった。

第六話終わり

この物語は鎌田信号機株式会社 創業者 故 鎌田大吉が平成7年に自費出版した戦争体験記「わが胸の夕日は沈まず」に基づいて掲載させていただきました。執筆については、当時の記憶や戦場での個人的体験を基に行いましたが、誤報の可能性や失礼な表現がある場合がございます。戦争中という特殊な状況下であった事につきご寛容いただきますようお願い申し上げます
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