鎌田信号機 Web Magazine
わが胸の夕日は沈まず

  第七話 1/2
第三章 決死編

甘党陣屋へ行くチャンス到来

自分たちは時々、無線機(3号甲)に使用するA乾電池ならびに真空管の受領を任務としてマニラに行くことがあった。

ロスパニオス駐屯地を出発して約100キロを、他の部隊員と数名で貨物自動車に便乗して立ちっぱなし。国道とはいってもまったくのでこぼこ道で、車の揺れがとてもたまらなかったが、ひそかな目的をもつ自分は早くマニラ市へ到着すればと心を躍らせていた。

2時間余りで目的地マニラ兵器廠に到着した。班長殿と兵器受領をすませてひと安心、許可を得て、自由行動となる。

この出張の最大の楽しみは、マニラ市内の甘党陣屋に行くことである。早く「ぜんざい」「おはぎ」が食べたいと毎日夢にまで見たものだった。甘党陣屋はマニラ市内の中央にあり、店舗は非常に大きく、内部も広々としていた。収容人員は約200名だったかと記憶するが、それでも将兵たちが長蛇の列をつくっており、約2時間の順番待ちであった。

待ちに待って、自分が用意してきた飯盒に「おはぎ」を入れて、水筒に「ぜんざい」を入れ、そしらぬ顔をして仲間たちのために持ち帰る。原則的には店内で食べる事が条件であるが、そのあたりは実にわれながら要領が良かったものだ。

こういうことで、マニラ出張はこの「もう一つの任務」を仲間から大きく期待されながら、出発へと心を弾ませたものだった。甘党陣屋の長蛇の列を炎天下に長時間並ぶことはまことに苦痛ではあったが、任務を全うして帰還後の、同年兵の喜ぶ顔がとても嬉しかった。当時マニラ市ではぜんざい1杯50銭、おはぎ5個1円位で、軍票で支払った記憶がある。当時陸軍一等兵の給料は約21円と記憶する。

マニラ出張へ同行の班長殿は、自分が甘党陣屋にいる間の数時間は「どこでなにしてなんとやら」で、自分は知るよしもない。しかしマニラ出張時のある日、班長殿の行動を尾行してみた。そして

「ああなるほどなー」

戦争中といえども至るところ青山ありと言っても決して過言ではなかった。

自分たち初年兵は毎日が緊張の連続であり、夜の点呼をすませてベッドに入る時が天国であった。一夜明ければまた朝の点呼から地獄の生活が始まる。人間の忍耐には限界があるが、軍隊生活では無理がまかり通った。この世の忍耐とは、自己の価値観をも超越することに優越感と誇りを持つことであると自分は感ずる。

川柳

いつまでも飯上げ当番させないで

初年兵3年たっても初年兵

生き地獄古兵の顔色ばかりみて

この物語は鎌田信号機株式会社 創業者 故 鎌田大吉が平成7年に自費出版した戦争体験記「わが胸の夕日は沈まず」に基づいて掲載させていただきました。執筆については、当時の記憶や戦場での個人的体験を基に行いましたが、誤報の可能性や失礼な表現がある場合がございます。戦争中という特殊な状況下であった事につきご寛容いただきますようお願い申し上げます
鎌田信号機株式会社
Copyright (C) 2006 Kamada Signal Appliances Co.,Ltd. All Rights Reserved.