鎌田信号機 Web Magazine
わが胸の夕日は沈まず

  第八話 1/2
第三章 決死編

ナガ市の思い出

ナガ市はマニラ東南約450キロの地点にある。この南部ルソン島第一の都市に、わが第105師団が駐屯した。9月14日ごろと記憶する。かねてより先発隊が設営していたカテラル教会付属女学院に駐留した。教会はスペイン風で古色蒼然とした中にも威厳のある、おくゆかしい建物であった。わが部隊のナガ市への移住を、市民は親しく迎えてくれた様に思えた。ナガ市への駐屯期間は3ヶ月余りだったと思う。

ある日突然に班長殿より、鎌田とNに対して呼出しがあった。自分たちはまた何か叱られるのでないかと内心びくびくしながら班長室に入った。すると各班長殿より

「上等兵進級おめでとう」

と言ってくれた。われわれ二人はお互いに顔を見合わせてとてもうれしかった。この時は、四国・丸亀西部策38部隊から南方作戦のためフィリピン派遣兵としてやってきた約20余名の内、数名の兵隊が第1選抜上等兵として進級したのであった。自分たちとしては最も喜ぶべきことであるが、2つの星が3つになっただけである。使役の内容はなんら変わらない。かえって同年兵に対して気を遣うことが多かった。内地なれば赤飯炊いて大いに祝ってくれるのであるが、「ところ変われば品変わる」であった。

ナガ市では各将兵たちは毎日気楽に過ごしており、戦場という実感はなかった。前任地ロスパニオスより若干ながら糧秣も多く、食事の内容も良かったように思う。

市民感情も最初は好意的であったが、だんだんフィリピン各戦場における日本軍の不利なる情況を感じてか、市民たちはナガ市内より疎開を始め、2、3ヶ月後になると人口が急速に減少してきた。

やがて偵察の米空軍観測機がさかんに上空を旋回するようになった。そしてわが部隊の行動を察知するや、今度は戦闘爆撃機による攻撃が朝・昼・夕の3回必ず定期的にやってくる。ロッキード、グラマン、カーチスなどの爆撃機であった。米人操縦士の顔がはっきり見えるほど低空飛行にて乱舞する。日本軍はまったく手も足も出せない状態で、ただナガ市内の高層ビルの地下に身体を隠すのが精一ぱいだった。

12月中旬ごろ、自分たちに心強い情報があった。日本軍の最強師団がロスパニオスに駐屯したというのである。第8師団は日露戦争において屈指の激戦地(黒溝台)戦闘に連戦連勝した輝かしい戦歴を誇っていた。

また、わが将兵たちが待ちに待っていた大将が比島派遣14方面軍司令官としてマニラに着任したとの重大ニュースが入った。かつて「マレーの虎」として、英欄連合軍司令官パーシバル中尉に「イエスかノーか」と決断を迫った人である。これは当時の南方総軍の実力を世界戦史に大いに発揮した出来事でもあった。

だが、ナガ市の戦況は最悪の情況 となった。わが部隊はいち早く転進作戦のためナガ市駅より汽車に便乗して北上、アンチポロに移動した。その途上において、2機の米軍機から列車めがけて機銃掃射による攻撃が始まった。

自分たちは、列車内が満席だったので、列車の屋上の黒煙がもうもうとする中に小さく寝ころぶようにして乗っていた。そこへグラマン機、ロッキード機による奇襲攻撃をうけたのである。これはもう助からないと観念した。

と、不意に、スピードの遅い列車が急停車した。その瞬間、自分は屋上から飛び降りて、列車の底とレールの間に身体を隠した。天運であったか、自分は一瞬の差で命拾いできたのであった。 

この物語は鎌田信号機株式会社 創業者 故 鎌田大吉が平成7年に自費出版した戦争体験記「わが胸の夕日は沈まず」に基づいて掲載させていただきました。執筆については、当時の記憶や戦場での個人的体験を基に行いましたが、誤報の可能性や失礼な表現がある場合がございます。戦争中という特殊な状況下であった事につきご寛容いただきますようお願い申し上げます
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