鎌田信号機 Web Magazine
わが胸の夕日は沈まず

  第八話 2/2
第三章 決死編

アンチポロの思い出

部隊は、アンチポロの兵陵地に進駐した。住民が放棄して逃げたあとの民家には猫の子一匹いない。わが部隊はそうした空家に入りこみ、昼夜の行軍の疲れを癒すべく枕を高くして昼寝をすることができた。しかし家の中には何一つ食物はなく、これから空腹の状態で数日間過ごさねばならなかった。

日本軍がいると分かれば米空軍がまたまたさかんに爆撃にやってくるにちがいない。だから昼間は炊事の湯煙を出すことは絶対厳禁された。

民家の付近に樹木が生い繁っていた。夜間になって暗闇の中を懐中電灯で樹木を照らしたその瞬間、大きな現地の鶏が数羽、ばさばさと羽ばたきして庭に落ちてきたのには驚いた。普通、ご馳走は地から生えてくるが、フィリピンでは天からの恵みの神鳥であった。

その夜、約2年ぶりにかしわ料理にありついて、兵器班員は大いに喜びあった。民家の樹木には鶏が住んでいるぞと、各班ごとに夜になれば懐中電灯で照らすことが楽しみになったが、「柳の下にどじょう」ならぬ「木の上に鶏」はそれ以上おこらなかった。

それにしてもアンチポロの原住民が早くから疎開して無人となった家に鶏が住んでいたとは、まことに不思議なことであった。

アンチポロよりマニラの大空を眺めて

昭和20年1月1日、アンチポロから見るとルソン島マニラ市の上空は見事に晴れわたり、敵空軍の攻撃日和であった。わがマニラの日本空軍基地、クラーク飛行場、東飛行場には日本の戦闘機が何十機か待機していたようではあったが、ただの一機たりとも応戦することなく、消滅してしまったようだった。

日本陸軍の高射砲陣地からも米空軍に対して砲撃を開始したが、約100機の内わずか1機だけに命中し、空中分解により墜落させたのみだった。自分はこの状況を見て、高射砲の性能が悪かったかどうかしらないが、命中がただの1機だけではまったくお粗末な限りだと感じた。

日本の高射砲の射的高度が足りないので、米空軍機は銀翼を連ね、太陽の光を浴びて悠々と飛ぶ。その姿は敵機ながら迫力を感じさせるものだった。日本が高射砲の弾を撃ちつくしたころに今度は低空飛行で、米軍の誇るグラマン、カーチスペル、ロッキードの戦闘機が来襲してきた。米軍機はわがもの顔に上空を乱舞する。

その間約半時間ぐらいであったが、在比日本空軍基地、クラーク、東飛行場の戦闘機などは一瞬にして再起不能、全滅の運命となったようだった。以後フィリピン諸島に対する制空権は米空軍の掌握下となった。

いかに日本陸軍の精鋭部隊であっても、近代戦争に於いてはまず制空権を取ることが最優先する。したがってこれにより戦争の勝敗の主導権は自ら決定されるものと自分は感じた。

第八話終わり

この物語は鎌田信号機株式会社 創業者 故 鎌田大吉が平成7年に自費出版した戦争体験記「わが胸の夕日は沈まず」に基づいて掲載させていただきました。執筆については、当時の記憶や戦場での個人的体験を基に行いましたが、誤報の可能性や失礼な表現がある場合がございます。戦争中という特殊な状況下であった事につきご寛容いただきますようお願い申し上げます
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