鎌田信号機 Web Magazine
わが胸の夕日は沈まず

  第九話 1/2
第三章 決死編

当時重大なる情報によれば

米軍ついにリンガエン湾に上陸せりとの重大なる情報が入った(20年1月上旬)。約六百数十隻の大艦隊〜輸送船によるものであり、これがレイテ湾を出発してミンダナオ海を西北上、日本の特攻飛行機隊の反撃を切り抜けてリンガエン湾一帯に上陸を開始したのである。総兵力は五個師団、約19万1千人という大兵力であった。

彼らはルソン島中部に三々五々、上陸を開始した。戦闘爆撃機、艦砲射撃による援護をうけながら戦車部隊を先頭に上陸。マッカサー司令官の指揮のもと、米軍が誇る優秀なる兵器を総動員して、総ての物量による大作戦を日本軍に対して展開したのであった。このため、日本軍の各部隊は大いなる犠牲続出となった。

当時われわれ南部ルソン・ナガ市方面から北上して、アンチポロ・イボタム方面に展開して陣地構築中であったが、1月9日、突如、方面軍司令官の命を受けた。団長から、勤兵団長の主力(五個歩兵大隊)、師団砲兵隊、同工兵隊などを率いて、カバナツァン(マニラ北方約116キロメートル)へ前進するよう命令を受けたのである。

その後、各支隊による激烈なる戦闘が続行されたが、日本陸軍の将兵たちの戦死者の尊い犠牲者はその極に達したのであった。

運命の分かれ目で命拾い

アンチポロ駐留時の戦況はまったく悪化の一方だった。昭和20年の正月が明けて部隊は北部へ転進することになり、北へ北へと夜行軍で行程約400キロを移動することになった。当時、リンガエン湾に米軍上陸の情報が入った折、わが兵器班に出動命令が下った。部隊所属の自動貨車に無線機械などを満載して、軍曹殿指揮のもとに兵長の運転にて第1先発の行動をとった。

自分は、どの班長殿であったか忘れたが、要領よく頼み込み、自動貨車のボデーの隅にしゃがみこんで、夜行軍はしなくてもすむから、

「これはしめた」

と大いに喜んでいた。

そのころ自分は栄養失調と頻繁に下痢をしていたので、まったく歩く気力もなかった。そして夜になると鳥目にかかっていたのか何も見えなかったので夜行軍がまことに苦しかった。

しかし、「第1先発出発命令」が上官よりあった、その瞬間に、班長殿より、

「鎌田、車から降りろ」

と命令された。そして代りに兵長が便乗した。この時は班長殿を恨みに思った。しかし数日後の情報で、第1先発の自動貨車は、司令部指揮のもとに行動していたが、米軍戦車とカバナツァン付近で遭遇し、全員名誉の戦死をとげたとのことであった。

「生死の境」の戦場では「九死に一生」はまさに瞬間的な運命の差なのであった。

この物語は鎌田信号機株式会社 創業者 故 鎌田大吉が平成7年に自費出版した戦争体験記「わが胸の夕日は沈まず」に基づいて掲載させていただきました。執筆については、当時の記憶や戦場での個人的体験を基に行いましたが、誤報の可能性や失礼な表現がある場合がございます。戦争中という特殊な状況下であった事につきご寛容いただきますようお願い申し上げます
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