鎌田信号機 Web Magazine
わが胸の夕日は沈まず

  第九話 2/2
第三章 決死編

わが勤兵団・戦線行動

マニラ市の基点より、アンチポロ(リサール州)国道5号線、プラリデル(白鷺橋、アンガット川)(マニラ市より約42キロメートル)、バリワグ(約50キロメートル)、サンミゲル(約77キロメートル)、カバナツァン(約116キロメートル)へと、勤兵団後備大戦闘。

大隊の将兵激戦により半減する(2月1〜2日)。昭和橋(ゲンナル橋・パンパンガ川)・ムニオス(約147キロメートル)、サンホセ(約161キロメートル)、プンカン・ミヌリ(約190キロメートル、勤の師団司令部が一時駐屯した)。

ルソンの決戦場・バレテ峠(210キロメートル)で、日米両軍の死闘が約4ケ月間繰り返された。カバルアン丘の大盛支隊玉砕す。サンホセ軍需品北移援護のため、撃兵団が攻撃展開と勤兵団の3個大隊を撃・鉄兵団に配属する。

勤の主力兵団はミヌリへ向かい、鉄兵団はバレテ峠で縦深陣地を構築(1月中旬〜下旬)中であったが、一応鉄兵団による強固なる陣地を設けたるも、米軍機の猛爆撃の攻勢並びに敵重戦車の進撃により、わが最強を誇る(関東軍より派遣)鉄兵団も多大なる戦死者を出した。再起不能となったわが戦車隊は、砲塔だけ地上に出してトーチカ陣地として、敵の猛攻を防戦したが、ついに米軍の勝利となった。

いよいよ比島作戦は、各地域において敗戦濃厚となって、皇軍の戦力のすべてが低下の運命となった。日本軍の体力はまったく消耗していた。食物はなく兵器もなく撃つ弾丸もない、ないないづくしの裸の将兵であった。

バレテ峠死闘の戦場を夜行軍する自分たちは、隊長から激戦の状況は当時としてはまったく聞くことができなかった。自分はバレテ峠の日米両軍の死闘を回顧すると、かつての日露戦争での詩を思う。

金州城(きんしゅうじょう)    乃木希典(のぎまれすけ)


山川草木轉荒涼(さんせんそうもくうたたこうりょう)

十里風腥し新戦場(じゅうりかぜなまぐさししんせんじょう)

征馬前まず人語らず(せいばすすまずひとかたらず)

金州城外斜陽に立つ(きんしゅうじょうがいしゃようにたつ)

日露戦争第3軍司令官乃木希典大将とロシア軍ステッセル大将との水師営の会見は「旅順開城約成りて」の歌に歌われ、当時の日本の教科書の一頁に残されたのである。

過去の日清、日露戦争の勝利は大和魂の発露であったものと信ずる。

第九話終わり

この物語は鎌田信号機株式会社 創業者 故 鎌田大吉が平成7年に自費出版した戦争体験記「わが胸の夕日は沈まず」に基づいて掲載させていただきました。執筆については、当時の記憶や戦場での個人的体験を基に行いましたが、誤報の可能性や失礼な表現がある場合がございます。戦争中という特殊な状況下であった事につきご寛容いただきますようお願い申し上げます
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