鎌田信号機 Web Magazine
わが胸の夕日は沈まず

  第十話 1/3
第三章 決死編

歴史に残るバレテ死闘

わが部隊はバレテ峠を越えて、サンタフェ(マニラより216.5キロメートル)、アリタオ(237キロメートル)、北バンバン(252キロメートル)、馬頭橋(バトベリ橋、マガット川)、バヨンボン、ボンファル(在留邦人、約2千人集結地として自活する)、ソラノ(273キロメートル)、モロンと移動した。マニラからの夜行軍の行程は約280キロメートル、部隊はようやくにして、モロンの部落に一応駐屯することができた。その月日は2月4日頃であったが、こういうことになろうとはまったく想像もできなかった。

モロンにて駐在すること約120日間であったが、当時個人による自給自足生活が始まった。中隊給与から分隊給与、個人給与と当時軍需物資の糧秣はまったく欠乏していた。自給自足以外には道はない。

モロンの道端に野草が生えていた。日本のヨモギ草でしょうか湯掻いて喰べることができたが何の栄養にもならない。味付けは塩がないため現地のトウガラシを使ったが、自分はトウガラシは絶対駄目だった。

隊たちが2〜3人で協力して、現地の水田に稲穂が所々残っていたのを見つけて、臍(へそ)ぐらいの泥濘の田圃に入って一握りの稲穂を持ち帰ったりした。初年兵同士が鉄帽でついてみると何勺かあったようだが、とても飯盒にて炊くほどでなく、生米としてかじって食べたのであった。

その水田地を求めて山から山へと谷越えて、米軍の観測機にみつからないように、草むらに隠れ、木根に隠れ、ある時は水田より頭だけ出して米機の攻撃を免れたことも度々あった。2〜3人で稲穂を決死の思いで採ってきた。上官たちはそれを待ってる。兵隊たちの毎日毎日は、何か喰物を見つけるために、すでに栄養失調にかかっている身体でふらふらと歩くだけで、精一杯であった。

なんという哀れな戦場生活であったか、今日思えば思うほど、

「よう生きてきたなー」

と不思議でなりません。

部隊が北部ルソンへ北部ルソンへと行動したのは、ただ、各将兵たちが米軍の砲撃の弾丸を避けるための行動だったようで、何の作戦らしいこともまったくできない状況であった。敵に対して一発の小銃すら撃つことが厳禁されていたので、じつに万事休すといったところであった。

やがてモロン地区へも米軍機が朝・昼・夕方の1日3回定期的に空爆にやってくる。またどこからともなく不気味なる迫撃砲弾も飛んでくる。そのたびに、

「もうやられた!やられた!」

と思うほど、実弾の音が大音響を発する。

この物語は鎌田信号機株式会社 創業者 故 鎌田大吉が平成7年に自費出版した戦争体験記「わが胸の夕日は沈まず」に基づいて掲載させていただきました。執筆については、当時の記憶や戦場での個人的体験を基に行いましたが、誤報の可能性や失礼な表現がある場合がございます。戦争中という特殊な状況下であった事につきご寛容いただきますようお願い申し上げます
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