鎌田信号機 Web Magazine
わが胸の夕日は沈まず

  第十話 3/3
第三章 決死編

モロン地区で120日間移住していたが、もう1ヵ月もモロンにいたら部隊は餓死か、玉砕か、どちらかを選ばねばならなかったろうと自分は思った。今日何か食べ物はないかと、毎日が夢物語であった。

ある日、現地人の稲作の田圃を発見することが出来た。2〜3名が田圃に入り込んだ。なんと自分の臍まである泥濘であり、なかなか進むことが出来ない。辺りには稲穂があちこちと散在していた。戦友たちと

「米がある、米がある」
と言ってほんの僅かな稲穂を持ち帰る。

その瞬間に、米軍機4機であったか自分たちの方に向かってきた。もう生きた心地は全然なかった。敵機が自分たちの田圃めがけて機銃掃射してきた。思わず田圃の中にうずくまり鉄帽だけ出して、敵機が去るのを待った。身体全体が泥まみれになったが、命拾いができた。

「くわばら、くわばら」

と心底ほっとして胸をなで下ろしたものである。

3人が採った稲穂を集めたが、鉄帽の中の籾は、ほんの一握り程しかなかった。飯盒で炊くほどはないので、生米のままかじって食べたが腹をこわし、激しい下痢の連続であった。栄養失調という身体をどうすることもできず、毎日毎日が生き残るのに精一杯であった。しかし、上官に対しては自分の食べる物を分けあって食べるのが初年兵の任務であった。また、戦場という人間の最悪条件であり、悲運の境地でもあったのである。

ある日、モロンに大空襲があった。その瞬間、恐怖のどん底であった。敵機は何分間か低空飛行で椰子林すれすれに飛び、縦横無尽に乱舞する。タコツボに隠れることが、その日の延命策であった。しかしいざ爆弾投下となれば、タコツボに入っていても至近弾の爆風で身体は吹き飛ぶ。自分たちの運命は、毎回、防空壕の選定により決するのであった。

ある日、戦友の一等兵は、自分の定めの壕に入ってついに戦死をとげた。「名誉の戦死」も瞬間的な出来事にすぎず、運命の非情さを思い知らされた。

3月6日頃、モロン地区に米空軍機による大空襲があった。山林に大火災が発生して、部隊はさらに北部山岳地帯へ移動せざるを得なかった。将兵たちは何の気力も体力もなく、ただ歩く。歩くことが出来るのがかろうじて延命に繋がる。自分は、ある日山岳地を四つん這いになって前進したが、このときは、「まだまだ生命力が残っているんだなー」と自信を深めた。

北部ルソンの山々は、高さ約2千メートルくらいの火山脈である。そこを深夜に長蛇の列をつくって歩く姿は、今日の難民の移動とまったく変わらない。なんとも哀れなる日本兵たちの姿であった。各戦場にて敗戦につぐ敗戦で、みんな乞食同様の姿であった。「万事休す」。もうこれ以上は北へ行くことはできない所へと近づきつつあった。

第十話終わり

この物語は鎌田信号機株式会社 創業者 故 鎌田大吉が平成7年に自費出版した戦争体験記「わが胸の夕日は沈まず」に基づいて掲載させていただきました。執筆については、当時の記憶や戦場での個人的体験を基に行いましたが、誤報の可能性や失礼な表現がある場合がございます。戦争中という特殊な状況下であった事につきご寛容いただきますようお願い申し上げます
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