鎌田信号機 Web Magazine
わが胸の夕日は沈まず

  第十一話 1/2
第三章 決死編

行軍途中帯剣を紛失

わが部隊は北へ北へと夜行軍を行い、食物もなくなってきた。通信隊は器材を満載した第八車に綱をつけて引きずり回すばかりで、自分はといえばその車にあとからふらふらとついて歩くのがやっとであった。下痢の連続で、お腹の痛みを我慢して歩きながら、何分かおきに草むらにしゃがみこんでは用便をする。

部隊は昼間の行軍は絶対できなかった。夜行軍のみで、道なき道をできる限り歩く、暗闇の行進であった。米軍の攻撃の的にならないように夜行軍をすることは、誇り高き日本軍としてはまことに不本意にして哀れなる行動と言わざるを得なかった。

ある時、自分はまたまた下痢のため草むらに帯剣を取って用便した。そのあとで、そばに置いたはずの帯剣が鳥目のせいかいくら探しても見つからなかった。そのため何十分間か、部隊より遅れてしまった。

自分は、戦陣訓の教えに反して兵器を紛失したり、粗末にした者は重営倉入りが当然であり、また軍人として失格であると信じていた。だから帯剣をなくした責任は重大であると思い、必死の覚悟であった。おめおめと部隊に復帰することはとうていできないと考えた。

遠方で轟々と米軍の戦車の音が聞こえてきた。よし、自分は帯剣を紛失したのでこの場で死んでもよいと考えた。その時、救いの神、本兵長殿が、

「鎌田よ!鎌田よ!」

と何回も呼んでくれた。自分はすぐに答えられなかった。おそらく何十回目に、

「ハイ」

と答えた。班長殿は、

「何をしとるか。早くこちらへこい」

と大声で呼ぶのであった。米軍の戦車はこの道へ来るのだ。それを避けるために北へ北へと転進していたのである。その時天運か、後にも先にも絶対来ない友軍の貨物自動車が通りかかった。

瀬戸本兵長は手を上げて止めた。自分も便乗させられ、すでに何十分か遅れていた部隊に辛うじて復帰することができた。

その翌日の朝の点呼の時に、古兵殿であったか、銃も帯剣も道端に捨てたとの話があった。とても身体につけて歩くことができず、ただ靴下に若干の米と塩を肌身離さずに貴重品として持っていたというのである。これを聞いた時、そんな馬鹿げたことがあるかと思った。自分は帯剣を紛失したとき、その場で「死んでもよい」と決心したのに・・・・・。日本陸軍の行動としてまったくお粗末な限りであった。いたるところ敗戦につぐ敗戦で、精鋭部隊にももはや軍律の乱れが出ているのだと痛感せざるを得なかった。

今、その時の状況を回顧すると、本兵長殿が、自分を何十回か「鎌田!鎌田!」と呼んでくれたお陰で命拾いができたのであった。呼んでくれなかったらその場において野たれ死の運命であった。

この物語は鎌田信号機株式会社 創業者 故 鎌田大吉が平成7年に自費出版した戦争体験記「わが胸の夕日は沈まず」に基づいて掲載させていただきました。執筆については、当時の記憶や戦場での個人的体験を基に行いましたが、誤報の可能性や失礼な表現がある場合がございます。戦争中という特殊な状況下であった事につきご寛容いただきますようお願い申し上げます
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