毎日夕暮れになると部隊長より出発命令が出る。果てしない山野を越えて北へ北への前進あるのみであった。途中、米軍による砲声が鳴り響き、爆撃も絶え間ない。悲愴感に満ちた毎日であった。兵たちはとっくに疲労困憊の極に達しており、精神も肉体も、人間の生命の限界を越えていた。
行動途中、部隊員が路上に次々に倒れて行く。その姿に、何と言ってよいか言葉も出なかった。倒れた兵は上官に、
「もうこれ以上歩けません。自分はこの場所で死んでもよいから先へ進んで下さい」
と懇願する。上官はこれを引きずり起こそうとし、叱咤激励するのだが、その厳しい愛の鞭もついに通じない。毎日毎日、我が将兵がこのような運命を辿ったのであった。
行軍途中で倒れると、半日もすれば身体に蛆虫がわいてくる。特に負傷している場合は「時間の問題」だった。南方特有の病魔であるマラリヤ・デング熱・アミーバ赤痢など、また栄養失調に将兵の五体は冒され、衰弱し、約5日後には白骨体として路上に散り残される。
むろん野戦病院もなく、ただ、部隊の衛生兵がいるだけである。それも包帯と正露丸、ヨーチンぐらいしか所持していなかった。
さしもの皇軍も敗北の途上にあることを痛感せざるを得なかった。
当時の105師団通信隊は約363名であったと記憶する。
優先電話機は92式、無線機は3号甲であったが、部隊の移動中はまったく機能を果たすことができず、ほとんど無用の長物であった。自分は3号甲の発電機を力一杯回転させて腕力の疲れを体験したものだった。また重さ20キロというバッテリーを背中に負って何キロか山野を歩いた。その間にバッテリーの液が漏れて上着はずたずたになり、背中に硫酸の跡が残り、身体中とてもかゆくてたまらなかった記憶を今日新たにする。