鎌田信号機 Web Magazine
わが胸の夕日は沈まず

  第十二話 2/2
第三章 決死編

在留邦人大挙して北へ北へと

6月6日ごろ、バガバッグの地点にて、どこらか来たのか日本人の老若男女が幼児をおんぶして、皆それぞれが必死の様相で歩いてきた。幼児を歩かせて、泣く泣く道連れにしている親もいる。彼らは兵隊たちと相前後して、何の言葉もかけることなく、親子・兄弟・夫婦・幼児たちと連れだって歩く。そしてどこまで行くのか毎日毎日、軍隊の夜行軍とともに歩くのである。
おそらく何千人もいたと思うが、誰も一言も話す気力もない。ただわが軍隊と一緒に進んでおれば、とりあえずは安心だといった心理かと思えた。

彼らは在留邦人としてマニラ市街に住み、一時は日本軍の統治下でかなり良い生活をしていたものらしかった。彼らの何人かは大きなトランクを非常に大切そうに持っており、歩き疲れると肩に担いでは一休みする。

しかし、やがて全力つきて持ち切れなくなったのか、そのトランクを歩く途中で道端に投げ捨てる者が現れた。見るとトランクの蓋があき、当時の日本円の拾円札の束がなんとびっくり仰天するほど中に入っていた。自分たち初年兵の給料が約21円(軍票)だった当時である。こうした場面にその後も何回か見ることになった。

当時猪と称していた拾円紙幣は自分たちにはまったく縁がなかった時代であった。元気のある兵隊たちは、邦人が投げ捨てた拾円札を腹巻きに一杯入れて、金持ち気分になっていた者もいた。まことに尾籠なことだが、この拾円紙幣で尻をふき、鼻をかむ、また、その他いろいろと利用を考えた。フィリピンの葉煙草を採って拾円紙幣で巻き、喫んでいた将兵たちもたくさんいた。

トランクをさげて歩くどころではない。もう誰もかれも、喰い物がなければその場に死んでしまうという状況だった。兵隊は毎日毎日何か食べ物を見つけるために血まなこになっているのであった。蛇がいれば喰い、蛙がいれば喰い、トカゲがいれば喰う。猫も犬も大変なご馳走であった。邦人たちはやっぱり喰い物だけは肌身はなさず持っていたようだったが、自分たちには何のおすそ分けもいただけなかった。やがて、邦人たちはいつのまにか別行動となり、われわれと別れたのであった。

とにかく現在只今を生きることが精一杯である。自分たちは毎日毎日が戦場で、お互いに明日の生命の保証は何もない。ただ体力と気力と運のさだめだけである。米軍は日本軍を一人でも多く殺すことを目標に、飽きることなく連日猛爆撃を行なう。いかにも「戦争」という二字は、人間として残虐極まりの行動であり、最低の動物の行為であると実感された。
第十二話終わり

この物語は鎌田信号機株式会社 創業者 故 鎌田大吉が平成7年に自費出版した戦争体験記「わが胸の夕日は沈まず」に基づいて掲載させていただきました。執筆については、当時の記憶や戦場での個人的体験を基に行いましたが、誤報の可能性や失礼な表現がある場合がございます。戦争中という特殊な状況下であった事につきご寛容いただきますようお願い申し上げます
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