船倉内は各部隊員でぎゅうぎゅう詰めで、かろうじて横に寝るスペースしかない。いうなれば「雑魚寝」で、各人の頭と足がぶつかる始末であった。元・上官も部下もない。終戦前なら、
「無礼者!」
と上官は権力を振り回すところであるが、もはや上下の差もなく、全員ただの人間である。むしろ上官は兵隊たちに「おじょうず」することに努めていた。戦争中に上官は部下に対して「過酷なるイジメ」をしたので、その報復を恐れていたのである。ある部隊では4・5名の元・班長が「魔のバシー海峡」に投げ捨てられたという噂が拡がり、これは事実だったとのことで、元の上官たちは船倉で戦々恐々としていたのであった。
やっと日本に帰れるという喜びが一転して「フカの餌食」になる。戦争中の敵から、今は見方の怨念の爆発が恐怖の対象となったわけである。殺されないまでも、9泊10日の輸送中、船内では各部隊の上官に対して「リンチ」「リンチ」がくりかえされていたようであった。
バシー海峡通過の折、船倉内で心ある上官から次のような話があった。
「ここでは米軍の潜水艦によって多くの輸送船が撃沈され、南方の目的地への途上、何万もの尊い日本の勇士が南支那海に没した。慰霊のためみんなで黙祷を捧げようではないか」
こうしてわれわれは甲板上に出て、合掌して一分間の黙祷を行なった。
自分はいつも班長殿から
「今に初年兵が来るから楽しみしてに待っておれ。少しは勤務も楽になるから」
と口癖のように慰めの言葉をいただいていたのだが、自分のあとの初年兵はついにフィリピン戦場には来なかった。後日の情報によれば、ほとんどの日本の輸送船団は、台湾の高雄港を出発するや魔のバシー海峡で米潜の魚雷によって撃沈させられたのだそうである。自分には魔のバシー海峡は日本軍人の墓場であったように思えてなりません。この尊い戦友たちを思えば何としてもバシー海峡にて御供を盛大に行うことが国民の義務ではないかと絶叫したい気持ちです。