鎌田信号機 Web Magazine
わが胸の夕日は沈まず

  第十五話 1/3
第三章 決死編

収容所に明るい情報が・・・・・

ある日の朝食後、米軍将校から、収容所の兵隊たちに集合命令があった。

「ハローハロー!レッツゴー!ハロー!」

といつものかけ声で、幕舎前に全員整列させる。さっそくに全員の点呼をとった後、フィリピン人の通訳を通して、

「ただいまより、全員私物をまとめて待機中のトラック数台に分乗せよ」

との命令である。

自分たちの幕舎には40〜50名の日本兵がいたが、付近の幕舎を合計すると約300名ぐらいだったと思う。目的地はマニラ港とのことであった。いよいよ日本へ帰れるとの噂話でもちきりである。とはいうものの、

「本当かいな」

と、まだまだ半信半疑であった。

出発して2〜3時間でマニラ港埠頭に着いた。他のトラックに満載された兵隊たちもわれさきにと元気一杯で次々に飛び降りる。

その夜、米軍指揮官の指示に従いつつ、各地から何千名もの日本兵が各部隊順に、復員の輸送船に整然として乗船したのであった。

あの雄大なるマニラの夕日を、この日は眺めることはできなかったが、

「さようなら」

と心の中につぶやいて、自分は思い出深いマニラ港に別れを告げたのであった。

船倉内は各部隊員でぎゅうぎゅう詰めで、かろうじて横に寝るスペースしかない。いうなれば「雑魚寝」で、各人の頭と足がぶつかる始末であった。元・上官も部下もない。終戦前なら、

「無礼者!」

と上官は権力を振り回すところであるが、もはや上下の差もなく、全員ただの人間である。むしろ上官は兵隊たちに「おじょうず」することに努めていた。戦争中に上官は部下に対して「過酷なるイジメ」をしたので、その報復を恐れていたのである。ある部隊では4・5名の元・班長が「魔のバシー海峡」に投げ捨てられたという噂が拡がり、これは事実だったとのことで、元の上官たちは船倉で戦々恐々としていたのであった。

やっと日本に帰れるという喜びが一転して「フカの餌食」になる。戦争中の敵から、今は見方の怨念の爆発が恐怖の対象となったわけである。殺されないまでも、9泊10日の輸送中、船内では各部隊の上官に対して「リンチ」「リンチ」がくりかえされていたようであった。

バシー海峡通過の折、船倉内で心ある上官から次のような話があった。

「ここでは米軍の潜水艦によって多くの輸送船が撃沈され、南方の目的地への途上、何万もの尊い日本の勇士が南支那海に没した。慰霊のためみんなで黙祷を捧げようではないか」

こうしてわれわれは甲板上に出て、合掌して一分間の黙祷を行なった。

自分はいつも班長殿から

「今に初年兵が来るから楽しみしてに待っておれ。少しは勤務も楽になるから」

と口癖のように慰めの言葉をいただいていたのだが、自分のあとの初年兵はついにフィリピン戦場には来なかった。後日の情報によれば、ほとんどの日本の輸送船団は、台湾の高雄港を出発するや魔のバシー海峡で米潜の魚雷によって撃沈させられたのだそうである。自分には魔のバシー海峡は日本軍人の墓場であったように思えてなりません。この尊い戦友たちを思えば何としてもバシー海峡にて御供を盛大に行うことが国民の義務ではないかと絶叫したい気持ちです。

この物語は鎌田信号機株式会社 創業者 故 鎌田大吉が平成7年に自費出版した戦争体験記「わが胸の夕日は沈まず」に基づいて掲載させていただきました。執筆については、当時の記憶や戦場での個人的体験を基に行いましたが、誤報の可能性や失礼な表現がある場合がございます。戦争中という特殊な状況下であった事につきご寛容いただきますようお願い申し上げます
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